The ROOM MASTER

顔の皮膚が剥がれ落ちている。
頬にくっついていられなくなった肉が、引力に従おうと、ナメクジの様に移動を始めている。
アンマスクド―気持ちの悪いこの感覚は、今でも慣れていない。
それでも、仕方無いと僕は思っている。
自分で火の中へ顔を突っ込んだ訳じゃ無いけれど、僕の顔は爛れていた。赤紫色のグロテスクな部分は元がどんな風だったのか忘れてしまった。

ベッドはいつも清潔で白い。
テーブルには何冊もの本が散らばり、乗りきらなかった本は床に堆く山を作っている。
壁にはカレンダーが貼ってある。少し大きめのサイズで、三百六十五日を見る事が出来る物だ。
たった一つの窓の外は、いつ見ても、灰色がかった空だった。

相変わらず僕は、時間の感覚がわからない。どうやら、時間の経過というものを測る事は出来無い頭になってしまったらしい。たくさんの時間が流れたはずだ。それはカレンダーに書き記した数字が物語っている。
この部屋に入れられた日を始めとして”今日”が第何日目なのか書いているのだ。”今日”が何日か忘れない為に、朝、目が覚めてベッドから出るとカレンダーの日付に斜線を入れる。
五千四百三十。
既に四桁も半ばまで来ている。けれども、鏡の向こうの、爛れていない部分は全く変わらずにいる。
カレンダーに斜線を入れる度に、空恐ろしさを感じる。

これは、一体何なのだろう。どういう事なのだろう。

それが、全く見えてこない。
頭は服用している薬でボロボロなのだろう。もともと、どの様な効果のあったものなのか、よくわからない。ただ、一日のルーティンとして投薬されている物だ。
実際には薬のせいかは判らない。単純に自分の頭が劣化しているだけかも知れない。
それもあり得る。頭など、使わなければ劣化する一方だ。
書き込まれた日数は増えている。それなのに、時間というものを感じられない。この顔も”変わらない”。
夢か、現実か、それすらも判断出来無い。
現実なんてものは、幾つもの幻想の中にある、不確かなものが土台になっているのだ。ゾウガメが延々と世界の土台になっている様に。

例えば、もし今、悪魔が目の前に現れて、
「残念だったね。光を見る事も能わなかった哀れな胎児」
と僕の世界―或いは僕の爛れてぶよぶよになった皮膚―を引き剥がしたとしても、きっとくすりと笑ってしまえる気がする。
もしかしたら、僕は本当はその悪魔が言う様に生まれる前に死んでいたか、もしくは脳だけが活動している様な体で、すべてが虚なのかも知れない。
もっと面白くない事を考えるなら、無機物の塊かも知れない。
アレが遺した体か。と、一瞬だけこの病室に何度か訪れた来室者の一人を思い出した。アレならば、脳に支障をきたしたかも知れない。
毒をもって毒を制す―アレの場合は、自らの呪いでもって呪いを返したのだ。
どんな人間でも、苦しみの時間は、長くない方がよい。少なくとも僕よりもよかったと言える。

先の、世界や皮膚を剥がした悪魔に対して、僕はこう返すだろう。
「死んでたって、今、僕は僕を認識してるから、別にどうって事無い。コギト・エルゴ・スム、だ」
と、自分を肯定出来るだろう。
そして、悪魔に聞いてやるんだ。
「これから、どこへ向かうのさ?どこに向かっても生であり、死でもあるんだろう?視点の認識問題だ」
そう言った確信が僕にはあるのだ。体が生きているかどうかなんて本当はどうでもいい。この意識が僕の存在を信じているなら、そこに僕が在る。
こんな事を言ってしまうと、デカルトが悩んだ心身二元論を通り過ぎる事になってしまう。
僕は体をなおざりにし過ぎなのだろう。実際、思考が出来るのは体と脳が存在するからだ。
体から言わせれば、この細胞の塊を御するために、あまりにも複雑な回路を持ち過ぎてしまったのだ。体にとって必要としない思考がのさばっている。

たまに、何かの実験体としてこんな窮屈な函に閉じ込められているなどと考えたりもする。
そうであるならば、この体を使って新しい人間が出来ないものか。一つの個体を複製する事自体にリスクはあるが、この体の持っている情報を元に、新しい個体を複数作るのだ。
大量に作れば、そのうちの一つくらい、変わった奴が出てくるだろう。僕が消え去った何世代目か後に、本当に面白い奴が出てきたら、僕の勝ち。
くだらないと思ったけれども、結局、生物は正常なものと一部のジャンクで生き延びてきたのだ。何もなければ正常なものが生き、環境が変化した時にはそのジャンクがその生物、種の命を繋ぐ。それの繰り返しだ。

一度、僕は左の甲を自分の頬に当てた。滲んできていた膿がべたりと付いた。二三回それをすると、膿が糊の様な働きをして、甲と頬の肉が軽くくっつき、そして離れた。その部分が僅かにチクチクと痛む。
膿独特の匂いは鼻が慣れてしまったせいであまりよくわからない。たまにふと、その嫌な匂いを感じる。別の香りを嗅いだ後によくある。
テーブルに置いてあるウェットティッシュを自由に使える右の手でたぐり寄せ、それで手の甲を拭った。次はティッシュで爛れた顔に薬を塗った。ちゃんとした薬を付けているけれども、どうも、効果は無い。薬と同じ様に、取り敢えず手順の一つとして行ってるだけだった。包帯を取った。それから、右の指先ともう使えなくなった左の手を使って爛れた顔に包帯を巻く。
何十日か一度くらいの周期で調子がよい事もあるけれども、カレンダーを一つ消費する間の殆どがぐったりとしている。
そんな棒の様にしか使えない左手も、コツさえ掴めばこれくらいの事は出来る様になるのだ。上手く指先に絡めたり、腕を顔に押し付けたりして。不自由かどうかなんて、本当はどう使う事が出来るか考えたら、実はそんなに不自由では無いのだ。不自由と感じるのは、他の方法を考えようとしないだけなのだ。少なくとも、他の方法を考えている間は不自由だとは考えない。

手間取る事も無く巻き終えると、上の方の髪を梳かして整えてやる。誰も僕を見る訳でも無いのだけれども、外部の視点を意識しての行為だ。
外部から見つめる何者かを睨みつける様に鋭く視線を投げた。
この函からどうにかして出てやろう。そして、僕は僕を自由にしてやるんだ。
何ものにも邪魔をさせない、本当の自由を手に入れてやろう。

2014.08.06 |  Short Short Story | Text |  緋衣那 充希

進化 – Dreaming Egg

ぐるりぐるりと、不安定な球体の中で僕は回っていた。
液体の動く音が僕たちの音と混ざり合って聞こえる。渾沌ってきっとこんな事を言うんだと思う。
僕たちはいつも会話をしている。話し相手の心音が言うには、この世には、生きる権利のあるものと、そうでないものがいるらしい。
権利があるものは、最期まで生き抜く事が出来て、そうでないものは、途中で消え去る。それが、自然の淘汰というものなんだって。
僕は、最期まで生きれるかしら?
くるり、と心音が弱まる。
どうも、僕は欠陥品らしい。脈が弱いみたい。回っている事は回っているんだけど、あんまり早く回る事が出来無いし、たまに回り方がわからなくなって、止まってしまう事もあるから、どこかおかしいのかも知れない。
じゃあ、出ない方がよいのかな。とも思う。けれども、どうも液体とは別のカタチはそれなりにあるみたいで、境界面ははっきりとしてきている。
心音。と僕は呼びかけた。そして、ちょっとの間だけくるりくるりと少し早めに回ってみる。
-なに?
-僕、どこまでいけるかな?
-ずっと途中だと思う。皆みたいに遠くへは行けない。それだけは、ごめん…確かな事なんだ。
-でも、このままここで止まりたくない。
-その先、歩いていける?ずっと独りだったとしても歩いていける?あなたは辛い目に遭う。それでもいい?
-どうだろう。その時は心音、どうなるの?
-聞こえなくなる。そしたら、ふたりとも、いなくなる。
-いなくなったらやだなあ。
-その時は考える事も出来ないから、哀しくも何とも無いよ。それが救い。
-ねえ、心音。ここから出ても、きみはいるんでしょ?
-いるけど、今みたいに話したり出来無くなる。
-でも、そばにいるんでしょ?
-一番近くにいるよ。あなたが気付けないくらい近く。
-心音がいたら、大丈夫だよ。途中まででも外に出て、回ってみようかな。
-外に出たら、回るんじゃなくて、歩くの。
-あるく?
-そう。頭とは反対方向に歩くための脚が出来る。その脚というもので動くんだ。脚だけで歩くには、少し練習がいるけど、覚えたら今回ってるくらい、当たり前の事になる。
-そうなんだ。だからどんどん、違うカタチに変わっていってるんだね。
-本当に、いいね?
-いいよ。
心音はちょっとだけゆっくりと鳴った。今までの様に一緒にいてくれるのに、どうしてそんな風に哀しそうにするんだろう。
そして、次には強く、大きく音を立てた。
-ほら、時間が来た。この球体から出るんだ。思いっ切り、ぐるりと回って、外に出るんだ。最後に…。総てを信じて、信じて、最期まで信じるんだ。僕はその部分に存在してる。君に祝福を!

-じゃあ、いくよ。いち、に…

2012.03.29 |  Short Short Story | Text |  緋衣那 充希

函の中の狂人 the worst

「今日はとても天気がよかったの。日差しも穏やかで」
「もう秋か」
「あと一ヶ月もしたら紅葉が見れるんじゃないかな」
彼は視線をゆっくりではあるがランダムに動かしている。その瞳に連動するかの様にしてたまに頭がくらりと動く。
「一ヶ月先はどれくらい長いだろう?」
彼は無表情に言った。眠れていない様で、目の縁は赤く、目の下の隈は深かった。
そして、全てを断絶した冷徹な目は鋭く妖しい光を反射させていた。今にもその眼差しで彼女を切り裂いてしまいそうだ。
殺意は表立っていなかったが、攻撃的な様子であるのが観察出来る。
「二十四時間が三十日…」
意味の無い事ではあるが、彼女は時間に換算しようとした。
「七二十時間」
彼女よりも計算を素早く終わらせた彼がぶっきらぼうに口にした。
視線を彼の顔へと持っていくと、どことなく眠たそうな顔をしていた。
その顔の表情は少しだけ以前の彼に近かった。中心にある感情ががらりと入れ替えられてしまったせいで、違った様子になっているのだ。照明を温かみのある電球色から青白い昼光色に変えた様に。
おそらく、薬を投与されているのだろう。周期的に何かから抜けだそうとする様に頭を軽く左右に振っていた。
彼は片手を頭の後ろに持っていき、くるりと髪を指に絡ませると、時計の秒針に近い周期で軽く引っ張る。
「一日の睡眠時間を八時間として、四八十時間は覚醒状態。百冊は本が読める」
彼は喋りながらもその手を止める事は無かった。視線は彼女の頭の上あたりで止めている。その後ろに何ものかがいるのかも知れない。その後ろの何かに少しばかり敵意を滲ませている様だ。
「私はあなたを連れ出して紅葉狩りに行きたいの、叶うなら」
「医者が出してくれるか?こんな俺を」
悪意、憎悪といった負の感情を纏った彼の口元が歪に嗤う。
「あなたは、冷静」
その言葉に彼の手が止まった。再び眼が細まる。そして彼女の方へ冷たい視線を投げる。
「俺は人殺しだ」

半年前の出来事が、かつての彼からすべてを奪い去った。

それは、彼がずっと昔から恐れていた事であった。
人は、思ったよりも簡単に変質する。鋼のストラクチャがゴムの様に曲がってしまう時の様に、突然で呆気なく。防止できる様な明確なサインも無いまま歪んでしまう。対比が大きければ大きい程、周りに与えるショックは大きい。
「かもしれないけど」
「駄目だ」
強い口調で彼は言った。否定の意味で一度首を振る。
そして、目眩を起こしたらしい。ふらつきを抑えようとこめかみに手を添えて彼は一度うつむいた。しばらくそのまま黙りこんでいたが、ふっと顔を上げて彼女を凝視する。
「君は希望だ。自由になったら、まず君を殺さなければいけない」
まだ、その目には冷たく尖ったものがあった。彼女はナイフを胸元に当てられた様な錯覚を感じた。彼女の心臓がぎゅっと収縮し、体中がひやりとした。
もし、遮断されていなかったら、刺されているだろう。恐ろしいけれども、彼にだったら殺されてもいいかも知れない…。そんな危うい想像を彼女は張り巡らせた。
「どうして…、…どうして、希望は殺さなくてはならないの?」
恐怖を感じながらも、彼女は上半身を彼の方へ近付けた。
「何も残さない。残してはならない。残す可能性のある者は、俺の外に誰一人生きてはいけない。それが理だ」
ふと、今会話をしていた事を忘れたかの様に彼は横を向き、一点を眺めた。
彼女はその視線の先を追ったが、そこには何も無かった。
黙って、彼女は次の言葉を待った。
時計の音が無機質に時を刻み続け、刺す様な沈黙を彼女はひたすら耐えた。

神様、どうか慈悲を―

何度も彼女は神に祈った。
何度目かの祈りが通じたのか、ゆるり、と彼の頭が動いた。
「…愛している」
愛しい笑みが彼女の目に写った。彼の存在を瞬時に見つけた彼女の瞳が潤む。
その口調は彼女が慣れ親しんできた彼そのものだった。
あなたのその笑みが、一番好き。
彼女の胸の中に暖かな感情が湧き出す。
「今も、これからも。僕は、ずっと君を愛している。けれど―」
彼女の方へ視線を向ける。その瞳は彼女をしっかりと捉えていた。そして、本来の彼が持っている理性の輝きがそこにあった。
「僕の意思は持続しない。一時間も…いや、十分も保たないだろう。直ぐに”彼”に戻る」
静かに、彼は二人を遮る透明な板に触れた。
その板の触覚にずきりと痛みが走ったらしい彼は苦痛に顔を顰めた。
呻いた様に聞こえたが、実際、男は掠れた声で笑った。
「わかったかい?俺という構造が」
彼女は強い瞳で彼という理性を失った狂人を見つめる。
それは嫌な笑みを口元に浮かべた。ぎらぎらと光る眼は獲物を見つけた獣が狩りを始める時の様に彼女に照準を合わせていた。それでも彼女はじっとその姿を、瞳を見ていた。
彼から逃げない事。それが彼女に出来る彼らに示せる誠意、愛情だった。
愛しているよ、と狂人は彼女に吐き捨て、そしてガラスの板をべろりと舐めた。

2011.09.23 |  Short Short Story | Text |  緋衣那 充希

出張 (2) Invisible Side

迂闊だった。と気付いた時にはもう遅かった。
頭の中の空間が現れる。いつも通りの空間だった。全ての面が襖で区切られた和室で、小さな電灯がぶら下がっている以外には何も無い部屋だ。散漫に見れば狭い部屋に感じるのだが、広さを捉えようとすると、広がっていく奇妙な空間だった。
その部屋の殆ど中央に立っていた。そして、俺の姿は先程のスーツではなかった。肩には鮮やかな浅葱色の衣が掛かっていた。袖に腕は通していない。右手は塞がっている。それが、この部屋にいる時の俺の姿だった。昔は着物を羽織っていなかったが、ここ十年程はこの姿が基本になっていた。

目の前には男が立っている。あの男だ。と認識した瞬間、自分の顔に敵意が滲む。
緩くウエーヴのある髪が彼の顔の半分以上を覆っている。髪の間から、皮肉を中に含んだ目がこちらを覗いていた。口元は気分を害するくらいに、歪ませている。
「まだ、こちらに来ないのか?」
男は低くゆったりとした旋律を奏でる様にして言葉を紡ぐ。しかし、その旋律は決して心地のよいものでは無い。雑音あるいは歪みが混じっているせいなのだろう。
気泡が混ざってしまったマテリアルを叩いた時の様に、僅かながら響音が歪になるのと似ている。
「いつでも待っているぞ」
低く掠れた嗤い声を立てて男はこめかみを右の人差し指と中指で指す。拳銃に見立てている様だった。そして、男の口が横に広がる。
「狂れるのは、いつだ?気狂いの岩倉」
その言葉に、俺はその男を邪視に近い視線で睨み付ける。
触れられたのは逆鱗で、全身に緊張が走る。
膨張した空気が爆ぜる様な感情が喉に力を込めさせた。声帯が震えている。殆ど聞こえないが、威嚇する様な高音が発されていた。

―岩倉は、穢れている。

かつて、他人に言われた言葉を思い出す。
事実、精神疾患の多い家系だったらしい。原因が環境なのか、それとも遺伝子的な問題なのかという事は調べようと思えなかった。絡まった糸の様な部分があるだろう事も予測出来る。俺自身はその様な複合的なものだと結論付けた。
ただ、自分の知っている近い親族で自殺者が二人出ているのを知っている。これが多いのか少ないのかは判らない。中学に入って直ぐの五月、二人目の自殺者が出た時の葬儀場面が自分の中に暗い蟠りを作っている。
突然、足元が崩壊して落下する様な驚きと恐怖。そして、対処法も無いまま、対処しなくてはならない虚無感を伴った哀しみ。

古い時代にはそれに依る偏見もあったらしい。もともといた土地から離れていった親族もいる。自分も、その一人だった。帰らずにいるのは、それとは少し別の理由もある。残念だけれども、自分で宗家は終わりだ。一般家庭なので跡継ぎなど、大事にはならない。それに、叔父や叔母もいるので岩倉は完全には絶える事は無い。

そう、絶えない…。

もう一人、自分とは別の理由で自分の血を遺さない事を決めたいとこもいる。少しばかり変わった理由ではあるが、先進的だと言えるかも知れない。先鋭的過ぎて許容出来る人間とそうでない人間と大きく別れてしまうだろうが、彼らしいと思う。知っているいとこ達の中で歪んだ人格を持っているのは自分と彼の二人しかいない。どこかで俺は彼を気に掛けている。おそらく自分の危うさと似たものがあるからだ。彼も歪んではいるが、外部に向けて悪をばら撒く様な人間ではない。つまり彼も外側から見れば安全な人間だ。
「俺は、行かない」
高音域の掠れた音は怒気を孕んだ音で、どうにかして怒りを抑え込めているのが自分でもよく判る。
「いつでもこちらに来れそうじゃないか。駅に降りたら、反対のホームに飛び込む事だってお前は出来るだろう」
一度、奥歯を強く噛み締めた。そんな事を、してたまるか。
「消えろ。邪魔だ」
右手を上げる。そこには日本刀が握られていた。その鋒を男に向けているのだ。
この部屋の中で、この男と対峙する時の俺は、いつも暴力的だった。自分という人間は、理性で感情をがんじがらめに縛り付けているのだという事を示す様に。
あまり振る舞いのよくない感情が目指している循環。エグジットが無く、エスケープキーも効かないループ。

そう、いつも同じ結末へ向かう。それが十年以上続いている。これが悪夢だ。

「案外、お前はツれないな」
見下した目で男は少し顎を上げた。
「最期は蝉みたいに終わるぞ」
男は喉の奥でくくと哂う。
その言葉に視界が波打つ様に揺らぐ。足元が覺束くなった気がして、腰を落として体勢を整える。
バイパスされている方の視覚回路に蝉が羽をばたつかせて鳴いている姿が浮かび上がる。過去の一場面。

―長く生きちゃいけないんだ。

もう、二十年以上昔、まだ小学生だった頃の俺が口にした言葉が頭の中で反響した。
丁度、他人に初めて面と向かって穢れている、と言われた直後の夏休みの事だった。まだ何となくの悲しさがあって気分が欝いでいたのだろう。その言葉が何を意味するのか識らない少女に呟いたのだ。言わない方がよかったのかも知れない、と思ったのは十年以上経ってからだった。
耳が利かなくなるくらい蝉の声が響いた気がして、刀の柄をぐっと握った。
苦しみたくない。狂乱の中でのたうち回るのは、御免だ。
自分を破滅させる気は無い。それこそが敗北だろう。
俺は生きる。それはずっと昔に決めた事だ。
「俺は、そう、気狂いだろう。俺は、何も遺さない。それでも―」
静かな闘志が俺の目に宿っていた。今ではもう誰の為でも無い、俺自身との孤独で永遠の闘争。
「壊れずに生き抜く」
それが俺の存在証明だった。俺に輝かしくうつくしいものがあると教えてくれた人と交わした約束。そして、限りなくうつくしいと思える永遠を見せてくれた愛する人に対する誠意。
理性の自己破壊は、見せられない。
「どこまで保つかね」
強い力で男は刀の峰を掴むと、そのまま自分の脇へと下ろし、その顔を俺の顔に近付ける。吐き気がする程だった。この男にだけは、嫌悪が剥き出しになる。
斬りつけてしまいたい衝動に駆られる。左手を添え、力を込めたが封じられているせいで刀は微動だにしなかった。
「現に、お前は私をここまで近付けている。この意味が解るか」
俺の顔が今にも吼え出しそうな程に歪む。そして、男の顔もにやりと歪んだ。
それぞれ、違う意味を顕す様にして顔を変形させている。

嗤うな。

「…それが、何だ?お前の存在は、俺が生きる為に在るだけだ。俺は、狂気を乗り越える」
ぎらりと、俺の目に力が入った気がした。狂気を乗り越える、と言った割に、この目が孕んだのは狂気そのものではないか。

失せろ。

「馬鹿な男だ。飲まれてしまえばよいものを」
男の口から短い周期で嗤い声が吐き出される。
ざわりと激情が俺の中を走り抜けた。脳の奥の一番昏い場所にある狂気は静かにこの部屋の出来事を収束させる為に俺の意識を書き換える。
柄を持った両腕に信じられない程力が入った。男の手を払い、素早く刃を地面から天井の方へ向ける。
終わらない、終われない。
俺は、彼の言う様に終わってしまいたいのか―
刀は一気に対角線を描く為に加速する。間髪を入れず切り返し、首を狙う。
返り血が俺の上半身に掛かった。皮膚を滑り落ちようとする血は水とは違った粘性を感じた。気分の悪くなる血脂の臭いがする。
一度に力が放出された反動で肩の力が抜ける。深く息を吐き出す。それでも俺の目は男を睨んでいた。咆哮を上げたあとの獣にでもなった様な錯覚。
「…ほら見ろ、気狂いめ」
男はにやりと嗤いながら言うと、背中から倒れる。

鈍い音が立った。

俺は漸く現実に引き戻された。
僅かながら、上体が前につんのめった。反射的に横目で通路側の席を見たが、隣に座っていた若い男はヘッドフォンを付けたままぐっすりと寝ている様だ。あとは自分が寝言を言っていない事を願うだけだった。
どうやら、県内に差し掛かっている様だった。
もうすぐ駅に着く。今の状態で車で家に帰る事を考えるとかなり辛いものがある。
駅に着いたら、気分を変える為に何か食事でもしよう。食事と言うよりも、コーヒーか何か飲み物がいい。
それから、帰って風呂に入って出来る限り落ち着かせる。日付が変わる頃までに寝れば、何とかなるだろう。
あの部屋の出来事とそのあとに立ち現れる現実、実際、どちらの方が悪夢だろうか。
つくづく、くだらない事を思い浮かべたものだ。

2011.09.16 |  Short Short Story | Text |  緋衣那 充希

出張 (1) Visible Side

高速で流れていく窓の外の景色は夕暮れ時だった。
出張で唯一苦手な事と言えば、行き帰りの移動である。
路線の行き届いた地域であればまだ嫌いにはならなかっただろうが、生憎、自分の住んでいる地域というのは電車の路線は無い。
かつては一時間に一本だけ電車が走っていたが、十年程前―自分が今の家に移り住んだ頃―に廃線となってしまい、一番近くの駅は車で三十分以上という足の悪さだ。
開発される様な地域でも無く、歩けなくなったらどうするのだろう。
その時には宅配サービスなどが充実していて欲しい。などと、どこか安易な事も考える。
この安易さは甘い、と自分でも思う。無理であれば、家を引き払ってもう少し生活のしやすい街に移動した方がよいのだろう。気に入っている家であるので、出来る限りは住んでいたい。実家の方に戻る、という選択はいつだったか捨て去ってしまった。

鞄の中からレジュメの束を取り出して、昼間の会議の内容を思い出す。
束の中で必要なのは数枚程だ。あとは印刷して渡される程の物でも無い。そして、会議の内容というのもこの資料の内容の濃淡と同じ様に必要性の無い部分が多い。もっとスマートな事が出来無いのだろうか。
ハンドアウトに載っているものは短絡的なもので、指摘する部分が幾つかあった。
試算が甘すぎる。もう少しシビアに見るべきだ。
あれでは中期以降の見立てはよくはならないだろう。その頃には基盤が脆弱化している。
土に手を入れなければ根が張らない。根を張れない野菜は実らない。それと同じだ。
疑問点を暗に含んだ質問をしたが、その回答はやんわりと「考えていません」というものだった。
そんな事でいいのか?
自分は大丈夫だ、と考えている事が見え透いている。上になる程、壊滅的な事態が起こらない限り、身の安全が保証されていると思い込んでいる。
後輩達を考える。更に拡大する。結論は自分の中で明確だった。

少し、こめかみの辺りが痛んで、指先で押さえた。窓の向こう側で、自分が少し苦笑しながら首を振るのが視えた。確かにそうだ、まだ出来る。と窓ごしの彼に答える様にして顎を引いた。
もう一度、資料に目を通して幾つかのメモを拾い読む。ラップトップを起動させて、レポートの構成を整える。駅での待ち時間に大体の書くべき内容、課題点は打ち込んであった。
全体がまとまったので一度全体を読み通して、文法的な間違いを直す。ここまでしておけば、問題なく提出出来る。最終チェックは家に着いてからにする。
書きながらも思っていたが、渡される側としては、意図されていないものだろう。向こうの意図も理解しているが、先を考えれば妥当なレポート内容である。

ラップトップの電源を落とし、閉じたところで一度息を吐き出す。
もう少しくらい、自分の仕事がしたかった。自分の所属するチームが担当しているモノに力を注ぎたかったが、流石に最初の頃の様に自由にさせてはもらえない。きつかったが、自分が試作に関われている、それが自分にとって熱心になれるものだった。
日本語で言うと大げさに聞こえるが、自分の存在に対するちょっとした尊厳の様なものだった。これは、自分にとって、幸運な事だったと思う。そういったものがあったからこそ、ここまで立っていられたのだ。
昔から、周りに勘違いされているが、自分は人よりも足元がぐらつきやすい人種である。学生の頃は常に理由や大義名分、常識を意識していなければ、まともに立っている事が出来無かった。”道徳的正しさ”に対する振る舞い、差異の修正の繰り返しだった。修正ばかりが目に付いて、厭になって投げ出したくなった事もある。

大学まで続けていた剣道の形と似ている。二十年以上続けていれば普通の振る舞いは出来る。剣道形は剣道の段位取得の一環でもあるのだが、好きな部類の練習だった。所作を洗練させるというところが自分の性に合っていたのだろう。記憶が一瞬だけ中学の頃まで戻る。夕暮れの武道場で一人で素振りをしている時の事だ。あの時間は好きだった。うつくしいものへの予感、というのだろうか、綺麗なものを拾える気がした。

現在に、自分が就いている現場に立ち返る。これから先、作るべきモノに全く触れられなくなってしまうのだろう。予感と言うよりも、全体を見渡した流れから推測される帰結だった。出来るだけ現場で動いていたい、というのが本音だが、そうもさせてはもらえないらしい。
現場の状況が全く分かっていないで勝手な指示を出す、それは嫌な事だ。そうならない様、確りと根ざしていかなければならない。その手間は幸か不幸か割く事が出来る。これが、現場から自分が離れてしまう原因だろう。
ここからは更に上手く渡っていかなければならない。きっと、上は面白く無いだろうが、肩書きよりも実際の方が、自分にとっては重要だ。上手くやれる、やってみせる。

するべき作業は終わったので、もう仕事の事は考えない事にした。
一度目を閉じて、思考を止める。無くてもキリは付くので、形骸化した儀式だ。
鞄の中から文庫本を取り出して読む。本を読む事で僅かに、安定、という感覚を抱く。
読んでいる間、自分の頭の中を流れる血が仕事の時や家に帰った時とは違った動きをしているのが判る。それが、気分転換になっている。この血流は嫌いじゃない。
一章を読み終えて、視線を窓の外へ移した。
外は暗くなっていた。そして、解像度の低い鏡となった窓に自分の姿が映る。
スーツが黒い。頬を隠す様に流れた髪も、目も。黒で塗り潰されている。
ぼうっとしてその暗闇を見ていた。少し、疲れているのだろう。

Someone knocked the door…

2011.09.13 |  Short Short Story | Text |  緋衣那 充希

コントラスト

従兄が隣に座っていると、車の室内はやたら狭く感じる。
と、彼は思った。これは昨晩にも思った事だ。
おそらく、この軽四の室内は体の小さな彼に適切な空間なのだ。
もう少しくらい身長が伸びて欲しかったが、それはそろそろ望めそうもない。
反対に従兄の体となると、少なくとも乗用車サイズでなければ比率が合わない。
もっと大きなものでも大丈夫だろう。それ程、従兄の身長は高い。うらやましい。
最近は車内の広さを売りにしている軽四もあるな。と彼はふと思い出した。

遅い朝、そして、まだ早い昼。

彼はそれに自分自身と従兄を代入した。どちらがどちら、という事は考えなかったが、何となく似ている様な、似ていない様な。おそらく自分が遅い朝だろう。
考えたがあまり意味が無い事だった。関連性が薄い。つまり、似ていない。
従兄の―つまり母方の―血がもう少し遺伝していたら、自分自身を嫌いにならずにいれただろうか、そんな事を彼は空想する。翼があれば、と言うのと同じだった。

ラジオの音が薄く充満している以外は何も無い空間。
年に一二回会う事があるかかどうかの二人である。会話の共通項も少ないので、二人とも特に取立てて話す事は無かった。
彼は言葉に困っていた。こう言った状況での沈黙はかなり堪える。お互い、それ程多くの会話が必要ではない事は分かるのだが、それでも何か言葉を発さなければならない、という強迫観念が余計に口を重くしていた。
一方、従兄が沈黙を気にしている様子は無かった。向こう側の窓を何の気も無しに眺めている従兄の横顔が彼の視線の端に見える。その横顔に映る仄かな陰がある。おそらく昨日のアルコールが気怠い気分にさせているからもあるのだろう。

それ以上に―

従兄を降ろす予定である駅に近付いた頃、彼は従兄に声を掛けた。
彼の中で二つ程引っかかる。
一つは、彼自身は失敗とは思っていない事だが、今のアクセントは従兄にはまだ慣れていない。
もう一つは、中途半端な調音だった。発声方法を躊躇ったためだ。普通では考えもしないそちらの方に、彼は苛立った。もう、こんな事は止めにしたい。

従兄は一瞬だけ息を呑んだが、直ぐに思考を変換した。彼が従兄を呼ぶ時、二通りの呼び方をする事に昨日気付いたのだ。このアクセントは今の従兄を認識してのものだった。

「…あの、」
「何だ」
少し冷たい声だと従兄は思ったが、これくらいのトーンが本来の従兄のノーマルである。
「今月、誕生日だったんスよ」
「そうだったっけ?」

一度彼の頭の中でポップアップ・ウィンドウが開いたが、直ぐにクリックして消した。必要無い情報だと判断したのだ。
「はい。漸く二十歳です」
「成人か。それで?」
先を促されても彼はまだ迷っていたが、一度息を吸う。
要求するという事が苦手な彼なので、ここは勢いだけで言い切るしか無い。
「えっと、折角なんで、お酒でも奢って欲しいなー…何て無理ッスよね」
車を操作しているが、堪え切れずに彼は一瞬だけ従兄とは反対の方へ顔を向ける。気付くかどうかの蛇行があったが、問題にもならない程度のものだった。
「あ、バイト代もあるんで、割り勘とかでもいいですけど…」
結局、強がれなかった彼は言葉を付け足した。既に彼の中の殆どが口にした事を後悔していた。肩はがっくりと下がり切る。
「…社会人が学生に割り勘なんか要求するか」
呆れた様に従兄は頭を振りため息を吐いた。

酒を飲む事は彼の目的では無い事は直ぐに分かった。彼が絶対に言わない事を言った理由も、従兄は理解していた。
涙、という単語が従兄の頭の中に広がった。頭の中で幾つもの画像がシャッフルされる。
誰の?意味は?
一気に脳の回路がブーストし始めたのを感じて、従兄はその思考をシャットダウンした。考えるな。

従兄の回答を待つ間、彼はそこらじゅうに散らばっていた道路標識をランダムに見ていた。こういう時、彼の中のセンサが的確に相手の状態把握をするせいで、落ち着かない気分にさせるのだ。一度レッドの点滅をして、ぎりぎりでイエローのサインが細かく点滅し続けている。
駅前のロータリィに車が入り込んで、停止した。
「…借りは返そう」
ぽつり、と従兄の出した声に彼のセンサはグリーンを示した。少し安堵する。
「借りだったんスか…」
息を吐く様に彼は言った。
彼のその言葉に従兄は右手を胸のあたりまで上げ、その手を上下に動かす。
自分が発した言葉を否定する意味だ。

借り、という言葉を使った従兄ではあったが、貸し借りでは無く、勝手な、余計な事を考えて欲しく無かっただけである。その借り、というのは昨日の出来事であるが、二人ともその事を考えない様にしていた。お互いに、他人に見せたくない自分の姿が滲んでしまった。その姿を思い返したくなかったのだ。

「連休の予定はまだ立ってない。その頃でもいいか」
「あ…、本当にいいんですか」
彼の言葉に従兄はゆっくりと頷いた。従兄は少し醒めた様な、どこか深いところを見ようとしている表情だった。彼には従兄が懐いている感情を構築してみようとしたが、もやもやとした裾の様な部分が感知できるくらいだった。彼はその感情を持った事が無かった。これから先も持つ機会が有るかもわからない感情なのだろうと少し悲観的に予測した。

「都合がいい日でいい。決めたらメールしてくれ」
「すみません」
彼は条件反射的に謝っていた。やはり勢いだけでは、本性に逆らう事が出来無かったらしい。
「謝る事じゃ無い」
「ごめんなさい。…ってこれがいかんのか」
「それがお前の優しいところだ」
相手に無理をさせない様に考えてしまう故の彼の行動である。
もともと、そういったところが彼らにある事を従兄は知っていた。
「優しくなんか、なりたくないです」
金属の様な硬い声で彼は言った。ハンマで叩いて鳴らせた様な調子に従兄は彼の顔を見る。意外な硬質な音に少し驚く。どうやら、甘く見過ぎていた様だ。
思わず彼の表情へ視線を射た。
「強くなりたいです」
少しだけ敵意を滲ませた顔が声を放つ。
強くなる、という事は今の彼にとって、弱い自分を否定し前に進む力になるものだと信じている事であった。
それは、従兄も彼の歳の頃に思った事である。
従兄は彼の目を見て微笑った。
類似性を見つけた時の何となしの安堵感。それが、従兄の緊張を緩めたのだ。
「柔は剛を制す」
微笑った顔とは対照的に無機質さを感じさせる声で従兄は言葉を発した。そして、更に口を広げて笑みを作った。従兄の顔の変化を彼は張り詰めたまま見た。
「ありがとう」
従兄の声はいつもの声の調子に戻っていた。そして、表情もまた同じ様に普段のものへと変化する。
じゃあ、と従兄はドアを開けて颯爽と外へと出て行く。
ぽかんと取り残された様に彼はその後ろ姿を眺めていた。従兄は全く振り返る事も無くするすると駅の階段を上っていく。

視界から従兄が消えると、彼はステアリングに凭れ掛かった。
「あぁ、もう!」
彼は、彼の一番嫌いな音域で叫んだ。金切り声。
自分の振る舞いに腹が立った。思い通りにならない、という不満。何が、と言われると少し難しいが、自分の理想の振る舞いとの差が大きく離れている事だけが認識されるのが気に入らないのだろう。
矮小な自分、そんな事ばかりを思い込んでしまうのが、彼の悪い癖だ。
何よりも、従兄のあまりにも様に成り過ぎている退場の仕方がただただ羨まし過ぎたのだった。
従兄は彼にとってどうしようも無い程の厚く高い壁である。

2011.05.29 |  Short Short Story | Text |  緋衣那 充希

なにも変わらない

“午前十一時に、一階ロビーで待ち合わせ”
時計を見て僕は一階まで降りて近くの椅子に座っていた。
赤い椅子が何個も並んでいる。せっかちな色なんか使わない方がいい気がする。

行き交う人、人、人。それを目で追っている。
意味が無い行動だけれども、本も何も持っていなかったからそうするしか無い。少しイラつきながら待つ。
シャツの袖を手で掴んで引っ張っていた。外せないソレも不自由だった。
待つのだって本当は嫌いだ。待ってるんだったら何かしらしたい。
動けない事って苛々する。
自由な方の親指を唇に当てた。”いつもなら”しない事だった。

「おはようさん」
待ち合わせの時間には早かったけれども、”待ってる人”が来た。
“名前と顔も頭の中で一致している”
「朝から恐い顔すんなよ」
「”早かった”ね」
「待たせるよか、ずっといい」
彼は僕の手を掴んで引っ張る。よくそんな事出来るな。と思った。
なかなか先進的な頭かも知れない。
「”午前”は眠たい」
「じゃあ、午後に向けてコーヒーでも飲もや」
彼は”いつもの様に”口をにいっとさせて笑うと、僕を連れて直ぐ近くのコーヒーショップへ歩いていく。これも”同じ事”だった。

外の空気に触れる。陽が目と肌を刺した。これだけで体がバラバラになりそうなくらいだ。
「しかし、暑いな」
首に巻いていたスカーフをはたはたさせて彼は言った。
「”七月”だ。暑いなら取れば?」
「まあ、直ぐ建物の中入るしな」
そう言うと彼はするりとスカーフを外した。
外した。
彼が僕の顔を見て、そして少し残念そうな顔をした。
「…こういう時ぐらいびっくりしたとか言わん?」
「”普段は”、外さないね」
「…ま、いいや」
顔のパーツを横にくしゃりとさせて彼は言う。

そうして、コーヒーを二つ頼むと席についた。
彼はカップを啜る。確か、”古い文章”だとコーヒーは啜るものだった気がする。
僕は冷めるまでは飲めないから脇に置いたままにしておく。
「”いつも”おごってもらってるよね」
「そんなもんは気にすんな」
「ごめんね」
「こんな小銭で買えるもんにごめんなんて言わんでも。大したもんでも無いし」
「ええと、おごってもらって、じゃなくて…」
僕は言葉を組み立てようとしていた。
どうやって伝えたらいいのかわからない。

「”記憶が無い”って、哀しい」
彼の顔を見ながら言う。
多分、彼とさっき会った時から僕の顔は殆ど表情が変わってない。
能面みたいに顔に表情を作れていない。これはまだ、いい方だ。
顔って鏡を覗いた時以外は蝋が溶けたみたいにゆがんでる。
だから、意識して無いと直ぐにゆがんでしまうんだ。けど、鏡には悪魔が住んでいて怖いから見てない。
せめて、どろどろに溶けた顔では無くて、能面くらいになってくれてたらいい。
「データ自体はあるから、”君の事が友達”だってわかるんだよ。でも、”君と過ごした記憶”っていうのが全く思い出せない」
「そりゃ、仕方無いね。だって、俺達学校で会ったら喋ってたくらいで取立てて何かしたっていう事は無えし」
「でも、それでも、全然思い出せない。気持ち悪い」
「気持ち悪い?」
「ひとりだけ、取り残されてるみたい。透明なガラスに囲まれてるみたいな。それか、誰かの体に入り込んじゃったヴァイアラスみたいな」
「ウィルス…」
「言ってる事の前後もわかる。…やっぱり気持ち悪い。”思い出せない”のに無意識に反応出来るって気持ち悪い」
腕や足を失った人が感覚として手足を認識している時ってこんな感じなのだろうか。
脳は覚えているけれども、実際には感じる事が出来無い感覚。
「大半の事が圧縮されて記憶に残らない。思い出せない。平坦すぎてどこにいるのか手掛かりが掴めない。”昨日”もわからない。そこに在るものの繋がり、結合力が弱すぎるんだ。薬のせいなのか、それとも脳の機能がおかしくなってしまったのか…」

空間の広がりだけが理解出来る。
物も人も、目の前の彼も遥か遠い。
頭の中で一瞬だけ全てがポリゴングラフィックに変換される。
「それが、哀しい」
僕は、感情も無く言った。
やっぱり僕はどこかのコンピュータの中で構成されたキャラクタなのかも知れない。
自分の感情なのに、その感情でさえ言葉の羅列にしかならなかった。

病気も、狂気も、正常も、何が違うんだろう。
生きてる事も死んでる事も、同じなのに。
同じになってしまったのに。

2011.05.23 |  Short Short Story | Text |  緋衣那 充希

BBQ

「もう飛ばないね」

地面に落ちた蝉が羽をばたつかせながら鳴き喚いていた。
少女はその様子を屈んで見ている。傍にいた少年は蝉と彼女を見つめいる。
まだ彼女は命が尽きるという意味を理解していない。
何もかもがずっと彼女の捉えた状態で存在し続けると信じられる世界にまだいるのだ。
「蝉は、成虫になったら一週間しか生きられないんだ」
「一週間だけ?何で?」
死の記憶も無く、それを識らない少女は首を傾げて少年を見た。
「…何でだろう…?」
流石にその理由を的確に答える事が彼には出来無かった。

命のサイクル。繁殖の為の成体。死のスイッチ。

それでも蝉は七年の歳月をかけて成虫になる。彼の目にも、まだそれがアンバランスに見えた。
七日間の為に七年掛けて力を貯めているのかも知れない。ふと、そんな気がした。
「それくらいがいいのかも」
「無くなっちゃうのは嫌」
少女の目が小波の様に小さく揺れた。彼女は有るものが消えて失くなる事が大嫌いだった。
消失は不安を伴って、彼女の心を大きく揺さぶるのだ。それは台風が訪れた夜に似ている。
目に涙を滲ませて少女は蝉をじっと見る。少女の口先は拗ねた様に尖っていた。
少年も黙って地面の蝉を見た。
断続的に蝉はまだ鳴き続けている。喧しいくらいの鳴き声に彼は目眩を起こしそうだった。
最期はこんな風に地面をのたうち回って死へ向かうのだろうか。
出来れば、そんな事をせずにすんなりと死に抱かれたい。と彼は思った。
そんな暗いイメージを思い浮かべたのは二ヶ月程前、六月半ばの出来事が彼の中でずっと蟠っていたためだった。
今でもそれは簡単に頭の中で復元できた。彼に向けられた言葉は、生々しく耳に焼き付いていた。

「近寄るな」

予想もしなかった石の礫が、その時の彼に当たった。感情の水面に波紋が大きく広がり、水流が荒れた。
そして、水面は元の様になった気がしたが、礫は彼の心の底に動かし難い澱みを作った。“違った”子供。
「…僕達もあまり、長く生きちゃいけないんだ」
少年はぽつりと口にした。
彼の横顔はその歳に似つかわしくない程、昏い陰を持っていた。
少女の関心はすっと少年の言葉に移り、彼女は少年の方へ顔を向けた。
「どうして?」
不安の色が消えた少女は透明な瞳で聞いた。まだ何も識らない瞳だった。
しかし、知らない事を知ろうとする目だ。
先程の涙で少女の瞳は輝いて、彼女の表情を純粋な疑問形に昇華させていた。
彼はその問いで、少女の顔の方へ顔を向ける。
ある程度の形を持って、彼女の質問に答える事が彼には出来た。
しかし、その答えを口にしてはいけない事もよく理解していた。
解っているから、誰にも言う事が出来無かった。
答えを提示出来無い彼は首を傾げて微笑う。
「何となく」
まだ、彼女は知らなくていい。
ここではない場所で育っている彼女にはきっと、まだ先の話だ。
叶うのであれば、気付かないままの方がいい。知らない、という幸せも存在する。
少女は、不思議そうに少年の微笑みを見つめた。彼の心の奥の澱みを見つけてしまいそうな程、大きく目を開いていた。そして、彼の顔を真似る様にして目と口元を緩める。
「ほら、もう行こう」
その瞳に見透かされてしまいそうな気がして、彼は体の向きを少し変えた。
今夜は親戚が集まってバーベキューをするのだ。
なだらかな坂の先に、灯りが見える。
その先にある赤と紫のグラデーションがかかった空にはちらほらと星が輝き始めていた。
肉の焼ける匂いと歓談の声がそこまで来ている。
「準備出来てるみたいだ」
その言葉に少女は灯りの方を向いてはしゃぎながら走っていく。
少年は地面に落ち鳴いている蝉をもう一度見つめる。
あと、少しだけだ。

心の中で彼はつぶやくと、少女のあとを歩き始めた。

2011.02.27 |  Short Short Story | Text |  緋衣那 充希

閉鎖病棟

僕は、その病室の中にいた。
何度か来ているけれども、何度目なのかは数えていない。
あまり考えたくない事であったし、本当の事を言えばここには来たくないのだ。
窓際には白い服を着た少年がいた。
まだ成長しきっていない体、顔つきからしてそうなのだろう。
頭と片目を覆う包帯が目に付く。そのせいなのか包帯に覆われていない片側の顔の印象が薄い。目鼻口全て存在しているのに、のっぺらぼうを見ている気分になる。
彼は窓を背にしていた。その窓の外は鈍く暗い空が見える。
「近いうちに、俺の望みは成就する」
演説をする様に彼は両手を広げた。その顔は笑っている様だ。
「俺はここから出られる。一巡り待ち望んだ自由だ。ようやく俺は死ぬ事が出来る」
そう、僕は彼の話が嫌いだった。
二、三年前にここに来た時、僕にとって耐え難い事実を伝えた時、彼は微笑って「よかった」とその事実を評価したのだ。
彼と話していつも感じるのは、僕自身のとヴェクトルの向きの違いだった。
僕と彼とでは正反対なのだ。だから、彼の言葉は受け入れ難いとよく感じる。
もう一人、彼と同じヴェクトルを持っている人格を知っている。
それが、自殺したある友人だった。彼の自死というのが僕にとって耐え難い事実である。
友人はそれを人前ではっきりと見せる事は無かった。けれども、話の端々に巧妙に隠されたそのサインに僕は気付いていた。
だから、友人を彼と近づけたくなかった。
彼と会う事でその感情が増幅される事が明確だったからだ。
後で知ったのだが、友人はやはり彼と頻繁に会っていたようだ。
「あれは死ぬよ。その意思がある」
耳をふさぎたかった言葉の通り、友人は自殺した。
窓が一瞬眩く光って、僕の意識は目の前にいる彼を再び認識した。
光に遅れて雷鳴が鳴り響く。
ぶれて、ひび割れた様な映像が僕の目に映る。平衡感覚が失われた様な感覚。
彼の姿が何重に映り、笑った。
「時間の問題だ。終幕は近い」

2010.01.16 |  Short Short Story | Text |  緋衣那 充希

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